![]() ― 某月某日、未明 ― ひたひた…と、足音を忍ばせてその影は廊下を進んでいた。古い板張りの廊下は手入れが行き届いているのか物音一つ立てない。それでも時折、そうっと首を廻らせ、周囲を確認する。まるで、何かに怯えるかのように、恐れるかのように。 そう、恐れは在った。これから聖域へと足を踏み入れようとしているのだから。聖域の守護者は、訪れる者を時にやさしく受け入れ、時に厳しく拒む。 拒まれるものが、それを恐れるのは至極当然のことだった。 「……」 すぅ…と、小さく息を吸い込む。扉にかけたその手は小刻みに震えていたかもしれない。音もなく開いた扉の向こう、しんと静まり返ったそこには人っ子一人いなかった。 ほぅ…と、詰めていた息を吐く。しかし、安心してはいけない。姿は見えずとも、守護者の意志は目に見えぬ壁として、そこに存在しているはずなのだから。 すぅ…と、再び息を吸い込む。恐る恐る踏み入れた足は、拒絶されることなく神聖な地を踏みしめた。 「はぁ……緊張したぁ」 安堵の息と共に思わず漏れた声を押し戻すように、珠紀は慌てて両手で口を塞いだ。その拍子に手にしたビニール袋がガサリと音を立てる。静まり返った台所にその音はやけに大きく響いた。 「………」 反射的に竦めた首をゆっくりと伸ばし、耳を欹(そばだ)てる。――沈黙、聞こえてくるのは自分の心臓が脈打つ音だけ。人の気配がしないことを確認して、ようやっと珠紀は緊張を解いた。 「さてっと」 手にした袋を調理台の上に置いてから、冷蔵庫のドアを開ける。そこに並ぶのはいわゆる高級食材。宇賀谷家の経済状態はどうなってるのか知らないが、山の中の村でこれだけのものを常時揃えてるのはすごいんじゃないかな、と珠紀は思う。同時に、台所を仕切っている美鶴の経済観念ってどうなってるんだろう?という疑問が頭を掠める。しかし、追求しても良いことはないだろうと察知した本能が一瞬にして疑問を意識の外に追いやった。 珠紀は改めて冷蔵庫の中身をチェックする。 「…やっぱりね」 普段の食卓のメニューから推測するに、この類の代物は常備されてないんじゃないかと思ったが、正しくそのとおりだった。自分の予感が的中したことに半ば満足しながら頷くと、いくつかの食材を取り出してドアを閉める。 調理台の上に載せられた袋は村の商店のものだ。用事があるから、と真弘の同行を断わり、寄り道して購入してきた『宇賀谷家の冷蔵庫にはないだろう』食材が入っている。 すっかり安心した珠紀は、鼻歌でも歌いだしそうな様子で包丁を手に取るとキャベツを切り始めた。 |